フリーランスであっても、『フリーランス』と名乗れない私
今日は誰かに感謝したい日です。このブログを読んでくれる人もありがとう。
見えないけれど、「ありがとう」って言いたいなぁ。
今こうしてパソコンをいじっている瞬間にも、地球は回っていて。
世の中には「あたりまえ」が多いです。「あたりまえ」があふれています。
そんな世界で、「あたりまえ」が消えることなんて、普段に気にもしないですよね。私も気にしてないです。
『こういうもんだな~』って過ごしているから、そのあたりまえが無くなった時にはどうしようとも、考えていませんよね。でもそれって、すごく怖い気もします。
わたしはよく、自分が分からなくなります。
”自分とは?”ってなります。考えても分からないんだけどね。
自分の事が一番分からないです。
昔から、人と同じことをすることに抵抗がありました。
校則も嫌でした。とっても。
でも、臆病だったから、守らないといけないものとして過ごしていたんですよね。
義務教育を終えて、「自分の知っている世界は狭いんだな」と知りました。
そう思うと、それまでの”まじめな”自分にも嫌気がさしたのです。
なんとなく、「まじめじゃない=金髪」と考えた私は、金髪に髪を染めました。
今となっては良い思い出です。金髪なんて、5年後にはできないと思うから。でも、今も金髪です。なんでだ。
卒業して校則が無くなっても、自分の見える世界の狭さは変わりませんでした。
これまでの20年間で、たくさんの人に出逢って、たくさんの人とサヨナラしてきました。
これも「あたりまえ」。いつかは誰しも経験することです。
もうちょっと身近なところで言うと、人間が死ぬのも「あたりまえ」。悲しいけれど、いつかはバイバイしなければいけません。
私がえらんだ「フリーランス」というのは、最近できたものです。私がこどものころは、全然あたりまえじゃなかった。
わずか10年もの間で、そうじゃないものが「あたりまえ」になりました。
私はよく自分とはなにかが分からなくなります。
「フリーランス」としてのわたしは、本当に「フリーランス」なんだろうか。
「あたりまえ」が時代を変えたように、これからもたくさんのものが変わっていくと思います。
もしかしたら「フリーランス」が私を変えることも、反対に私が「フリーランス」を変えることもあるかもしれません。
すでに「あたりまえ」は確実なものではなくなりました。見えているものだけが綺麗とは限らないです。聞こえているものだけが美しいとも限りません。
「あたりまえ」という革命は、すぐそこで起こると思うのです。
変わっていく世界で、自分だけ変わらないのは面白くないと思います。もちろん、良いものは引き継いでいきたいけれど。
「フリーランス」はよく【自由】と言われます。その意味を、良いか悪いかどっちの方向に向けるかは、自分次第。
自分次第で変われる中で、変わらないのはもったいない。
変わっていく時代に、変われない自分のままでは、私は「フリーランス」を名乗れないのです。